アートにはうっすら興味はあり、原田マハさんの小説をちょいちょい読んだりする。有名な美術展などやっていればたまに足を運んだりもするのだが、この本は書店で見かけた時ただただ驚いた。
目が見えないのにアートを見にいく?それもどうやら視覚に頼らない現代アートとかいうことではなく、絵画のように視覚情報100%の美術も含め、あらゆるアートを鑑賞してまわる盲人の白鳥さんという方がいるらしい。
興味が惹かれるままに早速読んでみたところ、アートに限らず何かを鑑賞したり趣味楽しむことに重要な教えを受けた。
とても大事なことだと思ったので、ここに記録しておきます。
Yahoo!ニュース本屋大賞も受賞している、読みやすい実力派ノンフィクション。おすすめです。
見えないのにアートを鑑賞するとは?
この本の主役である白鳥さんは、ほぼ先天的な視覚障害者で朝か夜かもほとんど分からない。物心ついたときから光や色の情報がないため、色の記憶もなくイメージすることもできない。つまり私たちのように視覚的なイメージを脳内に映し出すことはできない状態で、全国各地のアートを鑑賞してまわっている。という人物である。
ではどのようにして白鳥さんがアートを鑑賞するのかというと、美術館のスタッフや同行した知人に、絵の前でその絵についての情報を会話で解説してもらい、“概念として”自分の中にイメージを思い浮かべて鑑賞するのだという。
解説の仕方も人によってさまざま。大きさや描かれている物体の位置関係などなるべく客観的に情報を伝えるひともいれば、うーんこれなんだろ?と悩みながら主観で思いのままを伝えてくる人もいる。複数の人が同時に解説をすれば、それぞれ意見が食い違ったりもして、白鳥さんはそんな千差万別なフィルターを通じて鑑賞するアートこそがおもしろいのだと言う。
ずっと目が見えている自分は視覚的な記憶をすべて消すことはできないから、白鳥さんの感覚になってみることはできないが、これはかなり「なるほどー」と新鮮な驚きを得た。
なぜなら自分もアートを見ているとき、確かに目の前に絵があって何かしら心にインパクトを受けているにもかかわらず、それを誰かにうまく伝えることはおそらくできないな、と思ったからだ。それどころか、明確にこの絵はここがすごい!だからこんな風に心が動かされるんだ、と自分自身を納得させることもおそらくできない。
アートってものすごく個人的なもので、かつめちゃくちゃ曖昧なものなんだな、と白鳥さんの目線を通じて改めて感じさせられた。
アートはそれまでの自分を映し出す鏡
白鳥さん曰く、学芸員の解説のように、作者が込めた思いや細かい工夫や技法、時代背景など、知識的に詳しい解説をされても、すぐに正解に辿り着いてしまうだけでつまらないと言う。見えないものをイメージするワケだから、情報がいきなり揃ってしまったら、たしかにその自由さはかなり狭まってしまうだろう。
それよりも人によって意見が食い違っていたり、これはあまり見ていて気分よくない、みたいな主観的な意見の方が、自分の中でいろいろな解釈が楽しめて想像がふくらんで面白いという。アートはよく分からないものだからこそ、想像の自由な余白があって楽しめるということなのだ。
自分もアートを鑑賞するときに、よく分からないをそのままにして、なんとなく「次いくか」みたいに全体を他の客の流れに乗って眺めて、なんとなく気に入った絵があればポストカードを買って帰る、みたいな浅い鑑賞しかしてこなかったと気づく。いい大人になってからはさすがに作者や時代背景について勉強して少しは思いを馳せるようになったが、一点のアートに込められた想いや細部の工夫をじっくり見て想像してみるなんてことは、今もあまりできていない。恥ずかしながら想像力が“よく分からない”の先にあまり発展せず、飽きてしまうのである。
白鳥さんたちの鑑賞を見ていくと、つくづくアートはそれまでの自分を映す鏡なのだな、と感じる。
作者の川内さんはパリの国連で働いたり異色な経歴の人だが、それもあってかマイノリティや命の重さによく目線がいく。対して鑑賞をともにする知人のマイティさんは自由奔放で縛られない発想が際立つひとだ。そんな別々な人生の軸を持っている人たちだから、同じものを見てもぜんぜん意見はバラバラで、そのバラバラさがどれもまったく正しく、白鳥さんを楽しませている。
つい自分に照らし合わせてしまうのだが、アートの鑑賞はそのときの自分を映す鏡なのだから、今はよく分からないことをそのまま楽しめる範囲で楽しめばそれでいい。人生経験や知識、興味や人間関係などが変わっていけば、アートの見え方も自然と変わっていくものだから。またその時に楽しめばいいんだよ。そんなことを言われたようで、ちょっと心が和む気持ちになった。
白鳥さんの人生観「今を生きる」ことが重要
この本はさまざまなアートの企画展や地域の変わったアートなどを巡るのだが、作者の趣向かそもそも白鳥さんという視覚障害者が主役なこともあってなのか、戦争や命をテーマにしたものや人生について考えさせられる展示が多く扱われている。
それについての作者の考察は深く、ときに命やマイノリティについて堂々めぐりもしたりするのだが、対して白鳥さんはカラッとしているのがとても印象的だった。
白鳥さんは目が見えないことを当たり前のこととして生活しているし、“かわいそう”みたいな対マイノリティな目線もさほど気にしていない。先のことは分からないし、自分の考え方や興味もどんどん変わっていくから、過去にも執着しないという。今この瞬間こそがいちばん大事で、今を楽しんでやりたいことをやるのが白鳥さんの生き方なのだという。
考えてみれば、視覚の記憶はしまっておけて、簡単に見返すことができる。つらいときに写真を見返してあの頃は良かったな、なんて感傷に浸るのも、視覚情報をあてにしている人生だからこそ起きるのかもしれない。
白鳥さんは視覚が遮断された世界にいるから、ある意味で余計な情報ストックに記憶や感情を振り回されることなく、次へ次へと「今を生きていく」ことができるのかもしれない。
古いものをむやみに残さず、人間関係などもアップデートしていくのが、最近は良しとされている。(断捨離とか風の時代とか)何かをポジティブに切り捨ててどんどん進む今っぽく潔い生き方も、思いがけず学ぶことになった。
作者やマイティさんの視点も独特で、登場する人物も温かく変わった視点を持つ人が多い。この本はまぎれもなくアートの鑑賞について発見のある本だが、貴重な人生観をいろいろな視点から学べる一冊でもあった。
※白鳥さんの現在に密着した劇場版もあるそうなので、鑑賞したらまた記事を書きます。
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